竜という異質――征服の記号から、力の象徴へ

竜という存在は、古今東西の物語に姿を見せる。だが、その意味合いは文化によって大きく異なる。

たとえば東洋において竜は、自然の化身だ。雨を呼び、天に昇るその姿は、神に近い尊敬を集めてきた。日本でも、中国でも、竜はおおむね「畏れるべきが、崇めるべきもの」として存在している。自然の理を越えた力、しかしそれは悪ではなく、調和の一部である。

一方、西洋における竜は、しばしば「征服されるべき敵」として描かれてきた。火を吹き、財宝を守り、乙女をさらう存在。それはただの怪物ではない。悪魔、混沌、異教、そして未開――竜は、キリスト教世界における“異質”のすべてを象徴する記号だった。

聖ゲオルギウスの竜退治譚に見られるように、竜を倒すことは、信仰をもたらし、土地を清め、秩序を回復する行為だった。つまり竜は、宗教的征服の寓話の中で描かれる「倒されるべき他者」だったのだ。

だが時代が進むにつれ、その構図は少しずつ変わっていく。

十字軍の敗北。サラディンやアッティラのような強敵の登場。東方への征服の行き詰まり。征服の夢が現実の中でしだいに萎んでいくなかで、征服者たちは「竜」のイメージそのものを見直し始める。

もはや竜は、単なる悪ではない。強く、尊く、古くから存在する力。その存在は次第に「英雄が乗り越えるべき壁」として扱われるようになり、やがて「力の源」や「知恵を持つ長老」としても描かれ始める。ドラゴンを従えた者が王となる。そんな物語さえ生まれる。

つまり、竜は「排除される異教」から「象徴的な他者」へと、再解釈されていったのだ。

この転換には、ローマ帝国以後の西洋社会が持つ“物語だけが残り、力は失われた”という歴史的状況も関係しているのだろう。征服する力が衰えると、人はかつての敵を物語の中で再利用し始める。そうして竜は、ただの敵ではなく、克服すべき強さや、共存すべき神秘として生き延びた。

東洋では最初から「自然との共存」の象徴であった竜が、西洋では「異教の怪物」として登場し、そこから「力の象徴」へと変化していった。両者は、初めから対照的でありながら、やがて似たような地点へとたどり着く。

今、我々がファンタジー世界で出会う竜は、もはや悪ではない。時には敵であり、時には導き手であり、時には世界そのものだ。

かつて他者を征服しようとした物語は、今やその他者と対話し、共存し、畏れ敬うための物語へと姿を変えている。竜の変遷とは、そのまま私たちの“異質なものとの付き合い方”の歴史なのかもしれない。