神と竜と魔女と――異世界における信仰と怪異のかたち

西洋の物語に触れていると、ときおり「魔女」という存在に日本とは異なる重みを感じる。 日本における魔女的存在――山姥やまじない師、呪術者など――は、どこか民話の中で静かに暮らす隣人のような雰囲気を帯びている。けれど西洋では、魔女はより直接的に「人間にして異端」の象徴として描かれることが多い。

それはなぜなのだろうか、と考えると、宗教と地政の影がちらつく。西洋ではキリスト教という強固な一神教の下で、異なる信仰や存在が「悪魔の手先」として断罪されてきた歴史がある。魔女裁判はその最たる例だ。恐怖の対象が自然や怪異ではなく「人間であること」――それが西洋の魔女観の根底にあるのだろう。

興味深いことに、竜という存在は東西にまたがって共通して登場する。けれどその扱いは対照的だ。 東洋の竜は、しばしば水を司る神聖な存在であり、自然の一部として崇拝されてきた。一方で西洋のドラゴンは、暴力的で略奪的で、退治されるべき敵として語られる。 その差もまた、地政と宗教観の違いが浮き彫りになる。

東洋では災害という「人の力が及ばないもの」が畏怖の対象であり、精霊や神として受け入れられた。 対して西洋では、怪異はしばしば「悪魔の具現」とされ、人の信仰心や理性の試練として物語に組み込まれてきた。 竜を退治する聖人の逸話や、魔女を火刑に処す正義の名の下の行為には、神への忠誠と異端排除が同時に見てとれる。

特にキリスト教は、その布教の過程で多くの民間伝承や土着信仰を「悪」と定義し直すことで、支配の正当化を行ってきた。 アイルランドの妖精や、バルカンの吸血鬼伝承、スラヴの水霊――そうしたものは地域によっては悪魔の眷属とされ、あるいは聖人伝説に再構成されることで生き延びた。

興味深いのは、東ヨーロッパに多くの怪異が残っていることだ。 ローマ・カトリックに比べ、正教会は土着信仰との共存に対してより柔軟で、排除よりも取り込みを重視した。 そのおかげで、村の聖人と妖精が同じ壁画に描かれているような、混沌とした信仰空間が今も残っている。

こうした背景を踏まえて考えると、創作における「モンスター」「神」「宗教」の描き方にもひとつの筋道が見えてくる。 たとえば異世界において、モンスターが現実に存在し、日常的な脅威であるならば、厳格な一神教的世界観は成立しづらい。 あまりにも世界が混沌としているため、唯一神の支配では説明しきれず、むしろ多神教的・アニミズム的な信仰が自然と根づく。

ところがその中に、一神教国家が出現したとしたらどうなるか。 彼らはモンスターの巣を「竜の巣」と呼び、信仰と正義の名の下に征伐を行う。 征服した地からは金銀財宝が運び出され、現地の神や精霊は「魔獣」「悪魔」と呼び変えられる。 そして語られるのは、「我々が邪竜を打ち倒し、秩序をもたらした」という英雄譚だ。

だが、その背後にある真実は―― 竜とは、土地を守る神であり、金銀財宝は信仰の供物であり、退治されたのは、ただ違う形の信仰だったのかもしれない。

創作の中で、神と魔物はしばしば反転する。 正義とは誰の正義か。 悪とは何をもって悪とするのか。 歴史がそれを記すとき、勝者の言葉がすべてになる。 ならば、語られなかった側の視点を想像することが、我々の“異世界創作”なのかもしれない。